憲法の論文試験(人権)に関する一考察

※この記事は憲法の論文(試験)を勉強中である私が自分の備忘のために残しているメモのようなものです。頑張って正確に期すようにはしますが、何かあっても自己責任でお願い致します。

 

憲法の論文を勉強するにあたって、まずどういう構造になっているのかを意識した。つまり、大雑把にいうと【人権】と【統治】である。

 

ここでは、【人権】について触れる。

※統治については気が向けばまとめるかも。

 

今までそれなりに演習を積んできたが、人権が出てきた場合の処理手順は大まかに以下のとおりである。

 

①本件で問題となる人権の認定(政治的表現をする自由とか営業の自由とか

②制約主体の認定(国、地方公共団体or私人

③本件処分、あるいは本件法律(条例)による制約の認定

④③で認定した制約は許されるかの検討(いわゆる違憲審査基準

 

これがいわゆる公式のようなものだが、およそあらゆる場面で利用できるものではない。例えば表現の自由vsプライバシー権の場合等には、利益衡量を用いて処理する。

 

とまぁ、ここまでは市販の演習書にも記載があるわけだが、問題はこの先である。つまり、違憲審査基準の定立方法として、表現の内容規制なら厳格審査基準、内容中立規制なら厳格な合理性の基準といったような手法が採れるのか、ということである。答えは””である。

※この点に関しては、司法試験、予備試験の採点実感で触れられている通り、違憲審査基準の定立に終始している答案として低い評価となるようである。つまり、裏を返せば説得的な理由さえ書けていれば極端な基準を採用しない限りはそれなりの評価を得られるものと思われる。

 

さらに、経済的自由権は①民主政の過程において自己回復が可能だとか、②裁判所は立法府の判断を尊重すべきである、との理由で、精神的自由権に比してより緩やかな基準が妥当する(いわゆる二重の基準論)、そして規制目的に応じて審査基準を使い分ける(目的二分論)といったことがされる。

※複合的目的や一概に目的を認定できない場合では規制態様まで併せて考える

 

論文試験では、公式のような形で審査基準を定立してあてはめていくわけだが、果たしてこの思考は正しいのか?もう少し異なる思考が求められているのでは?ということに関して考えを深めようとするのが今回の目的である。

 

 

令和元年司法試験公法系の採点実感では以下のように述べられている。

本件で問題となっている自由ないし権利について、「表現の自由」として憲法の保障が及ぶこと、それに対する制約があることを論じた上で、違憲審査基準を設定して、当てはめ判断をするという基本的な枠組み自他は概ね示されていた…

違憲審査基準論の恣意的な設定をしている答案があるが、審査基準の設定に当たっては、どうしてその審査基準を用いるのかを意識して、説得的に論じるようにしてほしい。

関連する判例への言及は、以前に比べると増えているが、…当該判例のを正確に理解し、本問との区別の可能性を検討した上で、自らの理解を基礎付けるために適切に引用しているものはまだ多くない。

 

 

上2つについてはまさにその通りであり、やはり形式論的な論述は全く求められていないように感じる。

問題は3つ目である。というかこれを見て執筆するに至ったのだが…

※ちなみに、判例への言及は平成30年の採点実感でも触れられている。

 

つまり、具体的な事案(問題)に触れたときに、関連する判例を念頭に置いた論述が求められるのではないか?という疑問に帰結することになる。

 

※以下、令和元年憲法を題材に思考法を残すため、まだ解いていない人やネタバレされたくない人は読まないように注意してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

令和元年予備試験憲法の論文だと、念頭に置くべき判例エホバの証人剣道受講拒否事件や日曜参観事件が挙げられると考えられる。

前者では、学校側は、エホバの信徒である当該学生にだけ代替措置を採ることは、政教分離に反する、代替措置を採ることは他の生徒との間で不公平な結果となる…と主張していたことを思い出し、次に具体的にどう処理していたかを思い出す。つまり、そもそも校長には学校教育法上の裁量があるものの、当該裁量は無制限ではあり得ない。そして、本件処分が当該裁量として認められるのかといった観点から審査密度を考えていく。そのためには当該処分の性質、問題となる人権への制約の程度を考えていくことになる。

後者については、本件ではうまく使えそうにないが、事情の評価等で上手く使えそうなものが存在した(ように思う)。

※ここではざっくりとした思考に留めているが、実際に論文を書くときは緻密な思考が求められるのは言うまでもない。また、これはあくまでも思考手順であり、実際に書く際の流れとは幾分か異なる点にも留意されたい。

 

令和元年の問題を解く際に使えそうなフレーズとしては、

剣道受講拒否事件での、「剣道実技の履修が必須のものとまでは言い難い…」(みたいな文言があった)等が挙げられる。本件では水泳の授業であり、これは学習指導要領上、必修となっているため、このフレーズは上手く使えそうだなとか。

 

 

つまり実際の答案は、

校長の裁量権の逸脱・濫用にあたらないか。

かかる成績評価の性質、問題となる人権の設定、制約の程度の認定から、審査密度を考え、裁量権の逸脱・濫用にならないかを検討する。

 

といった流れになる(ようである)。

というのも、この問題を初見で解いて答練に出したときは、審査基準論を展開して論述していた。

つまり、本件処分はXの信教の自由を制約し、違憲ではないか。から始まり、公共の福祉、違憲審査基準の定立→当てはめ(当てはめの中で政教分離に関することを書いた)という流れに載せていた。

この答案は、某予備校の答練に提出したが、ちゃんと点が取れていた。

 

予備校答練の結果を鵜呑みにすることは危険だが、Twitterを見る限り(これも情報に偏りがあるが)、裁量論で書いたけどFだった、違憲審査基準で書いたけどAだった、という両極端な結果が存在する。

つまり、判例を念頭に書いても緻密な評価が出来ていなければ評価は伸びないし、判例を思い出せず処理手順に載せて書いても、審査基準の定立理由や当てはめがしっかりしていれば、ちゃんと評価されるようである。

 

ということは、無理に書き方を変える必要はなく、関連する判例を思い出すことができ、それを上手く表現できるのであればそちらで書き、関連する判例を思い出せない場合には処理手順に載せて書いても差支えはないということになる。

 

 

以上。

何か質問あれば自分で調べてください。